ツメが伸びるのはやいねん。

都会に住むトカイ子と、田舎に住むイナカ子が、都会砂漠と田舎沼をサバイバルする日記。

私と公の谷間

 

この世で一番遠い場所は

自分自身の心である。

寺山修二「少女詩集」

 

今更ながら、寺山修二を初めて読みました。

よくこの作家さんの背景をしりませんが、

中学校の同級生が、卒論のテーマに取り上げたことは知っています。

何でも、エロという概念を日本に持ち込んだ人なのだそうです。

 

詩集で涙をこぼす日が来るとは思わなかった。

あー、ちゃんと、歳をとってきたんだな、と思った。

自分がいつも表現できない何かを、ちょっとだけ言語化してくれる。

お手軽電子書籍で読んだものの、紙面デザインを堪能したいので、

これはそのうち、本屋にいこう。

そんな、春の嵐ふくとかい子です。

 

さて、とかい子はコンサルタントという業界に身を置いている。

お相手は、行政なのだが、行政には顧客はいない。

市民に業務を委託されているようなものだと思っている。

ひょっとしたら、以前書いたかもしれないが、

この世界に入るまえから、とかい子は

「共」とはなにか、ということを、よく考える。

 

バイブルとなった書籍に、このあたりのことが

分かりやすく書いてあった。

 

私は、個人。

公は、社会。

共は、共同体。

 

たしか、こんなんだった。ちがったかもしれないけど、まあ、

こんな感じ。

以前は、個人と個人が関わりあって、共の部分を運営していた。

そこに行政というシステムができ、共の部分をサービスとして

提供するようになった。それが公共である。(正確ではないので

そのうち、ちゃんと引用する。)

以前は、皆が同じように困り、同じような疑問を抱いていたから、

公共が成り立っていた。

ところが、全体の底上げができてくると、一律のサービスでは対応できなく

なっていった。

皆が一様に困っていたことを想定した公共の運営は既に限界が近い。

もう一度、「共」を考え直す必要がある。

 

こういう仕事をしていると何かと安易な行政批判をよく耳にする。

行政がしっかりしないから、縦割り行政だから、市が先導をとるべき。

しかし、行政とは実に不自由な組織で、実施できることは本当に限られている。

有名なまちづくりの団体の責任者は、行政ができることは、

承認だけだと言い切っていた。

何をどのように承認するのか、その大義名分を活動家に与えること、

それだけしかない。

 

どれだけ、行政の権限が限られているのか、それをもっと

世間がしると、必要な共がまた生まれてくるように思う。

もしくは、税金増やしていいから、もっといろいろやっちゃって!にするか。

 

海外だと、税金の違いで如実に安全性に違いがでる。

税金の安いところは、道路のインフラも整わず、税金が高いところは、

個別のパトロールから、医療費の免除等大変に充実する。

そして、その税金が払える人だけがその地域にすみ、

払えない人は安い地域に移動する。どうなっていくかは、考えるまでもない。

 

そんなことを、相も変わらず安易な批判をする、

行動派の人々の言葉を聞きながら、間に立つ、というこの仕事の

なんだかなあ、をかみしめていました。

年度末も、もう半ば・・・・