ツメが伸びるのはやいねん。

都会に住むトカイ子と、田舎に住むイナカ子が、都会砂漠と田舎沼をサバイバルする日記。

枯れ枝に満開の桜を夢見る

※ 若干性に関する直接的表現をふくみますので、苦手な方はご遠慮下さい。

 

 

 

カテゴライズというのは、学問において大変に大きな意味を持つ。

特に植物学の世界では、分類学という学問がある。

何をもってそこに分類するのか、

どんな特徴や進化の過程を経ていれば類似とすることができるのか

ということを深めていく分野 である。

遺伝子の研究に大変に貢献した分野だったような気がする。

違うかもしれないので鵜呑みにすることはないように。

 

さて、子どものころ。幼少期というものにあまり男女の差はない。

周りが勝手にそうするだけで、

男の子も女の子も、その時々の好きなことをしていた。

力も体格も変わらなかった。

テレビもなく、ラジオもなく、大人も男か女かわからないような感じに

していたら、多分、性差というものは認識しないと思う。

そういう意味では、性別は文化的認知かもしれない。

これと似たような話を以前イナカ子とした。

男子ばかり、女子ばかりで生活を送っていたほうが、

男女はより平等に育っていけるみたいたな話だった。

ちゃんとソースがあったはずだけれどもわすれてしまった。

なんかこの辺りは、うまく言語化できない。

 

 とにかく、この人間関係を築くうえでとてもとても

「女性」が邪魔だ。「女性」である私というのが最近とてもとても

分からない。人として、のベースが揺らいでいるからか、

その上に載せる女性として、みたいなのが分からない。

そうなると、ややこしいループになる。

ややこしいなあと思って、ぼんやり歩いていたら、「性器」がなくなったら

女性を意識をしなくてもいいのか?とか思いだした。

逆に、相手に(男性に)「性器」がなかったら、私は「女性」ではなくなるのか?

ということは、私は、性器に性別をゆだねているということになるのか?

 

この世の中で、女性のための商品は多い。

女性向けのシャツ、靴、本、曲、有形・無形を問わず

女性向けのものが多く発信されている。

だけど、これらは既に男性とも共有できるものだし、

文化的性別は、もはや選択肢にすることができるものだ。

 

絶対に女性しかつかわないもの、となると、

生理用品とサニタリーショーツしかない。

それらはすべて、性器に関わるものだ。

性器を意識しなければ、性別をこえられるのだろうか・・・?

 

着脱式になればいいんだよな、これ。

なんか、あ、今性器ほしい!って時だけつけられて

いらないやーって時は、消せる、みたいなの。

性器欲しい!ってなったら、相手の「男性」がほしい!ってことだし。

もしかしたら「女性」が欲しいのかもしれないし。

逆に言えば、性器はいらないけど、この人が欲しいってなるかもしれないけど、

とりあえず、「性器」が無ければ劇的に人間関係の構築が

分かりやすくなる気がする。

 

というわけで、

割とあーすきだなーって感じの、

雰囲気読めない感じの理系で、趣味にこだわってる、

煙草吸いの酒飲みの京都人と出会ったけど、

次の約束もせず、終電前にばいばーいってした私。

 

一つ年下の、退廃的な雰囲気が大変に似合う人でした。

もう、1か月後には覚えてないぞ。割と人間としても好きやったのに、

性器がが無ければ、また、のもーよ、次は、

共同体の定義について語ろう!とか言えたのに。

 

 

 

(こういう回は肌さらしがち)