私が高座にあがるとき
「えーまいど古いお話でございますが」
通勤中のイヤホンから、耳に心地よい語り口調が流れる。満員電車を嫌って、雨の日と寝坊しなかった日以外は片道40分、通勤のため自転車をこぐ。そんな私のお供は、幾人もの落語家たちだ。
もうすぐ、耳当てが必須の時期になるだろう。そのころには、立川志の輔師匠の「蜆売り」を聞きたい。桂米朝師匠の「除夜の雪」でもいい。それとも、すでに春を心待ちにしての「百年目」だろうか。
知らず知らず、私の口からも慣れた語りがこぼれだす。
「当方にて一席お付き合い願います。」
大学入学と同時に落語研究会に入った。もともと演劇が好きで、ずっと舞台に立ってお芝居がしたかった。でも、ナレーションも小道具も衣装をつくるのも楽しそうだな、と思っていた私が行きついたのが「落語」だった。
小道具も大道具も主役も脇役も、全部ひとりでできる。
そうして、着物に袖を通し、扇子に手拭い、頭の中に原稿を詰め込んで私は高座に上がった。
以来、およそ10年、いまだにアマチュア落語家として活動をしている。
私はどちらかといえば、プライドの高い人間である。だから、最初は落語もなんだかかっこよさそうなものばかり選んでいた。変な表情やおまぬけなキャラクターをしたくなかったからだ。でも、そんな噺は笑いは取れなかった。思うとおりにできず、高座で大泣きしたこともある。
今ならわかる。
思う通りにできないのは、噺が難しいからではない。「落語のキャラクターが自分の中にいない」からだ。
品行方正で正義感が強く、ひたむきに不器用に現実に立ち向かう、そんなキャラクターばかりやってきているが、実際の自分はなかなかそうはいかない。そもそも、落語のキャラクターはみんなどこかしらの「欠点」と思われる部分がある。
実はそれこそが大切なのだ。「面白く」あるためには、「完璧」でなくていい。
それは、日常が毎日完璧に過ごせるわけではないのと同じだと思う。当たり前の毎日は、ちょっとしたエラーが常にあるのが「当たり前」だからだ。
落語はそんな日常を讃えている、日常賛歌だと思っている。
生活をしていれば、せっかちな人、焦ってばかりの人、信じられないようなミスをする人、本当に人間なんだろうかと思うくらい優しい人、逆に驚くような悪人、多様な人が時にぶつかりつつ共存をしている。
落語は、そんな人間のどちらかといえばエラーだよね、という部分を笑いという形に変えて称賛してくれているのだ。
だから、落語をするときは自分のそんなちょっとエラーだよね、をよく理解するところから始めなければならない。だって、それこそが落語に必要な要素の一つだからだ。
自分の好きな部分、見せたいところを表現するような部分は何もせずとも、表現できる。
例えば、私は物知りキャラクター、若者が困ったときに、「こういう時は、裏町のご隠居のとこだな。あの人は何でもしってるってんだからな」と訪ねていく相手の役なんかがはまる。
自分も、学んだことや知識を人にわかるように伝えることが好きで、どうしたら伝わるかとあれこれ考えている。
ところがこのご隠居はちゃんと教えてくれることもあれば、わからないと言えずに知ったかぶりをして適当にこたえてしまうこともある。
「なあなあ、ご隠居、やかんはなんでやかんってんだい?」
「それは、戦場で兜の代わりにかぶっていたものに矢がカーンとあたったから、やかんやな」
「なるほど!」
そんなわけはない。
私もそんな一面がある。友達からは、名字の元永をもじって「モトペディア」だね、なんて言われていた。某インターネットの百科事典ツールをもじっているのだ。信じるか、信じないかはあなた次第、なんて。
そんな自分の一面を無視して、見ないようにしていたが、落語をするうちにそんな自分のダメなところをちゃんと受け入れようという気になってくる。
なんのことはない、最初から言ってしまえばいいのだ。信じるか信じないかはって。
それは、日常をちょっと面白くしてくれるし、ちゃんとわかっているときはきちんと伝えたらいい。そして、そのあと一緒に調べればいいのだ。
そう思えるようになった、大学2年生の夏。年に2回、落語研究会が主催する寄席で私はた「阿弥陀が池」というネタをかけた。はじめて、寄席のアンケートのもう一度聞きたい話に私の名前とネタが上がった。
自分のダメな部分、知ったかぶりのご隠居が出てくる話がお客さんに面白いと思ってもらえたのだ。その時少し、ダメダメな自分も悪くないと思えた気がした。
私だからこそ、できた落語、笑ってもらえた落語がある。
それは、とっても努力してたどり着いた自分じゃないかもしれないけど、どちらかといえば情けないなあと思うことの多い自分で未完成な自分だけれども。
そういう部分こそが、いきいきとしたキャラクターをつくり出す。
いろんな人が言っているが落語がつくってきた400年の歴史の端くれを担うものとして再度伝えさせていただきたい。
400年の歴史が証明しているのは、あなたがあなたであることが何よりもの価値だということだ。