ツメが伸びるのはやいねん。

都会に住むトカイ子と、田舎に住むイナカ子が、都会砂漠と田舎沼をサバイバルする日記。

雑記

※ただただ、文章を書きたくなっただけ。

 

夏の気配を感じると、いつも思い出す情景がある。

 

平日の朝だ。

暑かったからなのか、

それとも、テスト勉強か何かが終わらなくて熟睡をさけるためだったかは

覚えていないが、硬い床の上で目を覚ました。

私の幼いころの夏は今ほど暑くなく、家にクーラーはなかった。

夏でも窓を開けて寝れば寒いほどで

当然、震えながら目を覚ましたはずだ。

 

起き上がって窓の外を眺めるとよく熟れたスイカを思わせる赤が

空を染め上げていた。

かぜがよく吹いていて、いつもより早く雲が流れて。

そして、ひぐらしの鳴き声が響き渡っていた。

思い込みも入っているかもしれないが、杉の木が左右に揺れるのに合わせて

なく日暮の声は、風が通った道を示しているようで。

 

なんというか、音を見ていたような気がする。

 

それ以来、夕方をつげるひぐらしの鳴き声は、

私にとってまっさらな朝を象徴するものとなっている。

まあ、ここ数年、ひぐらしの鳴き声も聞いていなければ、

鮮やかな赤に染まる広い空も見ていないのだけれど。

 

実家の2階から幾度となく眺めた景色でさえ、

あの夏の朝から大きく変わっている。

風に揺れると大きな一つの生き物のように見えた杉山はずいぶんと木が切られた。

不ぞろいだった田畑はきちんと区画整備がされて、真四角になった。

自作の罠をつくりイモリやカニを捕まえていた用水路も

コンクリートで固められて川に降りるのでさえ困難になった。

 

大切な今を保つために変えられた過去の蓄積たちを

私はちゃんとかなしむ子どもだった。

変わってしまうことと失うことが同義ではないと分かっていても、

見覚えのない姿になってしまったことに呆然としていた。

 

私がこの年になっても環境の変化に弱いのは、そうしたことが原因ではないかと

思わなくはない。

とかくいなかに住んでいると、変わらずにあり続けるものの象徴である「自然」が

実はいとも簡単に壊せるものだと、何度となく

身をもって体験する。

それは、なんというか、あのビルがなくなった、

あの店がつぶれた、というのとは違うさみしさがある。

 

それは、だれとも共有する必要のない自分だけの良さがあったからだと思う。

同じものを見ても同じ感想はいだかない。

同じものを見ても同じではない。

そういうものが壊される。「お前のものじゃない」って

知らない誰かに言い放たれたような、そんな気持ちになる。

 

頭ではわかっている。

私の大切なもは誰かの好きできらいで、どうでもいいものだ。

私の嫌いなものは誰かのすきで嫌いで、どうでもいいものだ。

 

それにいちいち怒ってはいけないし、落ち込んでもいけない。

 

それでも、私はこれから先もあの夏の空を思い出す。

目に見えそうな音を思い出す。

あの、冷たい床の感触を思い出す。

そのすべてを一人で受け止めて、だれとも共有する必要がないと

当たり前のように思えたあの頃の自分を思い出す。

 

 

別に誰かと共有したいとも思わない。これからも私だけのものだ。

それがやっぱりひどく悲しい。

 

28回目の夏が、くる。

私はまた、あのひぐらしの声を見る。