ツメが伸びるのはやいねん。

都会に住むトカイ子と、田舎に住むイナカ子が、都会砂漠と田舎沼をサバイバルする日記。

冷えた炭酸の染み渡るはやさで

 

コートをクリーニングに出して、

もこもこの毛糸たちを圧縮して、パジャマとしてきていたフリースを

えいやっと片づけたら、少しだけほこりを被った春が出てきた気がします。

 

積もったほこりを払う風は春を告げる嵐が運んできたものですかね。

 

どうも、とかい子です。

忘れないように書きなぐったので、悪しからず。

 

せっかく東京にきてるのに、文化活動が停滞しがちなとかい子ですが、

先日初めて野音デビューしてきた。

 

hibiya-kokaido.com

 

大音楽堂と小音楽堂の二つがあって、どちらも明治、大正のころに作られ、

現在の建物は3代目に当たる。

 

とかい子は、危機管理、という言葉が抜け落ちてるし

収まらぬ満員電車、進まぬ改善、不明確な目標設定にも少々うんざりしていたし、

そこまで難しいことも正直考えてなかったけど、

初めての野音にワクワクしながら出かけて行った。

 

雨の野外、というのも初めてだったから、諸々を大きめのビニール袋に詰込み

着替えも下着まで全部もって、向かっていく。

 

te-to.net

 

聞き始めて間もない、バンドに初日に出かけ

2日目はここ最近はまっているバンドをみにでかけた。

 

oau-tc.com

 

どちらも、心臓に近い所に振動が届いて、たまらなかった。

知っているとか知らないとか、そんなのどうでもよくて、

自然と体が跳ねる。

 

一日目のバンドは立って飛び跳ねてみていた。

二日目のバンドは、座ったり立ったりしながら、終始足をパタパタさせながらみた。

  

二日間を通して思うことは、音楽から身体性を奪ってはならないということだった。

衝動的に体が跳ねる、そのことを。否定して押し込めてはならないんだと、

理屈抜きにおもった。

 

普段から仕事で皆様、とか、市民の皆さんとか、

曖昧で不確かで、そのみんなの中に、私はいるのかしら、なんて

正体不明の「みんな」という言葉が日に日にいやになっている。

そのみんなって、どんな顔して何してるやつのことなの、って

いつもよくわからないやつに気を遣うことを強制されているように感じた。

 

でも、ライブのステージから届けられる、「みんな」には

私もいるんだって確かに感じられた。にわかも、古参も、老いも若きも。

ここにいる皆ってことなんだなと確かに思った。

 

同時に私と音楽、私とライブという、一対一の感覚も感じる。

熱量に、代替行為は存在しない。

確信を持てる場は、オンラインでは限界がある。

今ここにある、ということが、こんなにも価値のあるものなんだと、

はっきりと思い知らされたように思う。

 

音源だけじゃ、体の中の空洞は振動しない。

どんなに音量を上げて音楽を聴いても、揺れるのは鼓膜の奥の小さな骨だけなんだと

 そう思ったとき、ふと新宿3丁目の薄暗いロックバーが

なぜ爆音でなければならないのか少し分かったような気がする。

 

あの空間にいるときも確かに、体の中が振動しているのが分かる。

あの空間はだから、皆、であり、私だ。

 

どちらのライブも最高に楽しかった。

 

何か事件が起こるたび、何か人の切実さに触れるたび、

私は当事者じゃないからなあ、という罪悪感だったりする。

 

当事者にならねば、と思う。

違う世界のどこかじゃなくて、

誰もが使う皆の中に自分を入れたいんだと思う。

 

音楽が連れてきてくれる当事者意識を、私はずっと追いかけているのかもしれない。

 

 

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