ツメが伸びるのはやいねん。

都会に住むトカイ子と、田舎に住むイナカ子が、都会砂漠と田舎沼をサバイバルする日記。

カウンターバーのような自由を始めよう

新橋にお気に入りのバーがある。

チャージ料がそこそこ高いからなのか、カウンターバーでメニュー表もないからなのか、同じ年齢の女性に会うことはない。

ようやく飲めるようになったウィスキーをロックで飲みながら、マスターと話すのがちょっとした贅沢だ。

 

ふと、大学生の頃同じようなことをしていて、お店の人から随分邪険な扱いをされて悲しい気持ちになったことを思い出した。

今思えば、学生に居座られたところでお金にならないのだから分からなくはないが、そのあとに入ってきた同じ年くらいの男性グル―プと明らかに対応が違ったことについては絶対に仕方ないと思いたくはない。

バーのマスターは50代後半の男性だった。まあ、そのくらいの年代の人なら仕方ないか、と思っていた部分もある。しかし。

 

「そんなことないんだよなあ。」

 

ぼやきながら、お通しのドライフルーツを食べる。房についたままで出される干しブドウは少し渋みを残してウィスキーの香とよく合う。

 

ここ数日間の記憶を掘り起こしてみる。

「子どもを生んだ方に育てるウエイトが偏るのは当然だから、医学部の女性の入学者が意図的に下げられたとしても問題ないと思います。」

悪かったことはそれを隠していたことです、と淡々と話す彼は、20歳の大学生だった。

「あの子、この間男性社員にお茶出しさせててびっくりした。」というのは、私よりも随分年下の女の子だった。

 

年齢が変わらない世代の方が、実は当たり前のように性別を起点とした考え方になっているように思う。私自身、女性であるからと社会的に不当な扱いをうけた記憶はあまりないが、それは不当性を理解できていなかっただけなのかも知れない。

そう考えたとき、私は無性に腹がたった。

別に当事者ではないけれど、気がつかぬうちに強いられている不自由さに腹がたったんだと思う。

 

男性も女性もいつまでたっても、不自由なままだ。いつまでも誰かがつくったクッキーの型抜きに自分自身という折角練り上げた生地を抜かれている。

もうひとつ腹が立つことは、私もひょっとしたら、その型抜きを誰かの生地に使っているかもしれないということだ。

得体の知れない不自由さの恐ろしさは、その認識のしにくさにある。

 

この手の話をすると、海外では、というお決まりのワンフレーズが聞こえてきそうである。しかし、性別によってつきずらい職業があると回答している割合は、実は先進国では日本は最下位なのだ。他国の方がよっぽどあると感じていると回答している。

それが、認識できていないからなのか、本当にないのかはまた別の話ではあるが。

男性も女性もそろそろ性別から解放されたらいいのではないか。男性か、女性かではなくそれぞれの個人がどうしたいか、だ。

 

「私は、子どもを育てたくない。」

私の妹はそういう。いいじゃないか。

誰もが自分にあった選択ができるように環境を変化させていきたいものだ。

 

片手のグラスを満たしていたウィスキーは、ラム酒に替わる。

 

ここまで考えるといつだってもう一つの意見がでてくる。マイノリティーに合わせて環境を変化させることは労力がかかる割に結果が得られず、その他大勢が負担を強いられることになる、それはそれでよいのかというものだ。

これに対して、まだ明確な答えはもち合わせていない。今のところ、これも1つの意見として受け入れた方がいいと思っている。

 

「お次はどうしましょうか。」

 

空になったグラスを指さしながらマスターが声をかけてくれる。そろそろ、大好きなフレッシュカクテルでも飲みたいところだ。

 

「次はどうしましょうねえ。」

さて、クッキーの型工場に殴りこみをかけるのは得策ではないし、自分1人では限界があるように思う。であれば、料理教室でも開いてオリジナルクッキーの作り方を参加者の人と披露しあう方がいいのではないか。

ただ、料理教室に来てくれる人は同じように違和感がある人だろうし、不自由を認識していない人に来てもらわない事には意味がない。

 

「おすすめは、ピオーネですかね。」

「じゃあ、それで」

「しゅわしゅわっとさせますか。アルコールは強めにしますか」

「炭酸なしで、度数高めで。甘くない方がいいかもしれません」

 

承知しました、とマスターがシェイカーをふるってくれる。

 

飲んでみないと、それが自分の好きな味かは分からない。それと同じでいいかもなとも思いだす。

色んな形にしてみて、それを食べてみてすきか、好きじゃないかを先ず考えてもらう機会をつくることが大切かもしれない。

 

「こちらでどうぞ」

 

薄紫のジンでまとめられたすっきりとしたフレッシュカクテルを飲みながら、ペンをノートに走らせる。

あなたのすきを見つけさせてください。そんなイベントを開いてみよう。自分の考え方が自由なものかどうか体験できる機会なら作れる気がする。いつの間にか老若男女、思い思いのカクテルを飲む客で埋まったバ―を眺めた。

 

「かんぱーい」

 

と1人ごちる。自由にならなければ、不自由になれてはいけないと、志新たにカクテルを飲みほした。空になったグラスとは対照に埋まったメモを片手にゆらゆらとまちを出る。

 

あなたがもし、もし、自分の手の中に型抜きがあると気がついたら、もしくは押されているかもしれないと感じたらぜひ一緒にお気に入りを探しましょう。

自由はしんどいですが、多分幸せです。

 

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