ツメが伸びるのはやいねん。

都会に住むトカイ子と、田舎に住むイナカ子が、都会砂漠と田舎沼をサバイバルする日記。

始まらなければ終わらない

連休明けってどうしてこうもみんな当たり前なんでしょうね。

二日もあっていないだけでずいぶん久しぶりな気がするのに、

びっくりするくらいコピーアンドペースとな毎日になりがちです。

私が東京に来てから3年程度、変わらなかった景色なんて何一つありません。

しいて言うなら、あの日あの人と見た不忍池のハスの葉くらいでしょうか。

どうも、とかい子です。

 

最近ね、自己肯定感高めの文章書いていますが、

あんなもの本質的じゃないのでね、あんまり気にしないでください。

ああいうこともたまに書いておかないと不幸であることに酔いしれてしまいそうで

そういうときって本当にむかつくくくらい性格悪くなるのでね。

嘘でもいいので自分を見てほめて、ほめられた記憶を虫干ししておかないと

自分の外殻さえ保てそうにありません。

 

人間には成熟というフェーズもあって、たぶん変わらない変わらないと

自身でいう人は変わっていく毎日に変わらずに対応できるように

自身の考え方を柔軟に当てはめなおしていく作業をしていて

だから腐らずに済むんだと思っていたりするわけです。

 

そして、私は、何かを始めてしまうと、終わってしまうことも知ったし、

それを失う怖さももうなんだかどう悲しめばいいのかわからないくらい

分かってきてしまって、最近いろんな人間関係をあやふやにしています。

 

始めるのはいつだって簡単ですが、続けていくこと、重ねていくこと、

それから、変えていくことは足がすくむような思いがします。

 

これだけ、何でも話せて居心地のよい思いができる相手は、そうそういないと

知っていて、でもそれを消費してはならないと分かってるので。

また、がむしゃらにボロボロになるまで動き続けるしかありません。

 

だから、私は遠距離恋愛ばかりしているし、仲のいい子とは

あえて連絡を取らない時期を設けたりしてしまいます。

その心地よさが当たり前になってしまったら、失ったときに耐えられないと

分かっているからです。

それくらい、3度目の失恋は私に痛手を残していったんだなと、

ここ数日なぜか毎日酒で記憶を飛ばしながら思っているのですが。

 

あの時のように、もう一度話せてたら、もう少しそばに入れたらなんて

不似合いなことを思わなければ。願わなければ。

まだ私は、やめてしまったふがいなさにも、負けてしまう心細さにも

恐れずに何かに挑み続けられてたかもしれないと思うわけです。

 

本音で話すことは恐ろしく、建前ばかりがうまくなり、もはや本音なんて分かりません。

そんなのは10代限定ボーナスステージかと思ってたら

いつの間にか抜け出し方なんてわからなくなった。

20も後半、子どもだっていても別におかしくない年でもこのあり様。

 

笑い声さえも出てきません。

 

自分の中の感情を説明する言葉さえ、古いまま

何もかもアップデートできず、自分を楽にする手段を身に着けるための

試行錯誤すら指の間をすり抜けていく。

 

病名にすがって薬を飲めば、努力しなくていいこと許されるとでも思ってんの?

 

※つまり死ぬほど仕事したくないってことと、現実逃避してえをめっちゃ大げさにかくとこうなります。